ひと通りの発表を聞くと、浅利さんは感動からか少し上気したような顔つきでいった。
浅利さん「調査員のみなさんの調査、すばらしいですね! 五城目町ってこんなにすごいので、ダムの建設は白紙に戻るかもしれませんね」
あっ……、ダムの設定、まだ残ってました? こちらの戸惑いをよそに、浅利さんはなおも言葉を続ける。
浅利さん「今、目の前にあるものはともすれば当たり前に思いがちですが、着実に変化しています。緩慢すぎてわからないかもしれないけれど、50年前のスナップ写真がとても古く、懐かしいものに感じるのはそのせいです。“今”はなかなか記録しにくいものですが、町にはそれぞれの良さがあり、それは一人一人の感性でないとすくい取れないんです。だからこうした調査を学芸員にまかせないで、皆さん自身が調査員になって残すべきものを見つけ出してほしいと思います。
100人の調査員が町中にいて、それぞれが残したいもの、伝えたいことを複数の発想で持ち寄り、シェアすることで、五城目町の存在は広がりを見せていくのです。そうやって、一人一人のなかに五城目町が残ることが重要なんです。」
この町がダムに沈む。その危機感を当初は半分笑っていた受講生だったが、浅利さんの話を聞くうち、博物館の学芸員が、いかに時間的なリミットのなかで自分の持てる感性と知識と体力をかけて調査に当たっているか、その情熱の一端に触れて、しんとなる。
浅利さん「『この瞬間がなくなるなら、誰かに届けたい』と皆さん、思ったのではないでしょうか。私も調査に入るときはそういう気持ちです。『こんな貴重なものを見せていただいたからには、ちゃんとそれを反映させないと』という使命感があるんです。出会った人がいい人であればあるほど、その生業のかたちや、その人の生き様そのものを受け継ぎ、語り継いでいきたいと思うんです。……ちょっと感極まって泣いちゃったんですけど。」
ちょっとまって! この人、本当に泣いてる……!
突然の浅利さんの涙に受講生が圧倒されるなか、藤先生が清々しくカットインした。
藤先生「あ、じゃあ極まってる間に僕のほうから……(笑)。僕も浅利さんと一緒に山平薬局さんに行ったんですけど、表示物をつけて、人に見せようという気持ちがあるということが興味深かった。
そこにあるものを見て、五城目って、いろんな結束点だったんだなと感じました。人も、ものも、関係もすごく作られてきた場所だというのがものが語っている。一つの時代性も読み取れます。戦後日本全体の動きが、収集されているものから伝わってきますね。
藤先生「僕が2年前まで館長を務めていた十和田市現代美術館で、『超訳びじゅつの学校』という部活のようなものをやることになって、被服部部長として参加してくれた洋服ブランド〈途中でやめる〉の山下陽光くんが、写真家の下道基行くん、編集者の影山裕樹さんの3人で『新しい骨董』というのを始めてました。現代にあるもので後世、何が残るかというようなことを考えていて、スパムメールを集めたり、古いファミコンのソフトを集めて、記名のあるソフトの持ち主を訪ねていくというようなこともやっています。サイトを見てもらうと、本当にしょうもないものを本当に売ってておもしろいんです。例えば有刺鉄線とか、歯磨き粉のチューブの一部とか、納豆の空パックとか。
人によって、時代によって、価値というのは変わってくる。僕らが今日見てきたものは、君らにとってはおじいさん世代、僕にとっては父親世代にとって『価値』とされたもの、それが収集されたものです。そのなかで3世代残るような価値を持つものって相当すごい、と僕はつねづね言ってきました。
1世代=33年として、3世代で約100年です。そういう俯瞰した目で見ていくと、新しいものが見えてくるんじゃないかなと思ったんですね。今の時代にあるもののうち、将来骨董になるもの。そういうものを探すという視点で価値を見る、目録をつくって収める、ものそのものを取っておくということは、非常に大事な視点なんです」
涙目から復帰した浅利さんが情熱的に反応する。
浅利さん「その視点って非常に重要で、昭和30~40年代の核家族化した住宅の中を残した学芸員がいました。その視点は大当たりで、あっという間の高度経済成長でその時代の暮らしぶり、のれんや家具に至るまですべて新しく変わってしまったので、現在、ベッドタウンのマンションの空き家で行われているその展示が大成功しています。“今”を集めておくとそれが50年後に価値あるものになるということは十分にありえるんです。」
マンション丸ごとをアーカイブする。そんなこと、やろうと思う人がいたということ自体が信じられない。
浅利さん「こうしたものを実際に収蔵することができるケースはかなり限られています。それができない場合も、博物館では目録を作り、それを収蔵します。」
目録?
テレビのクイズ番組で優勝者とかに送られる、大きすぎるのし袋に、これまたデカデカと書かれた「目録」の字が思い浮かび、首をひねる。
お宝鑑定のテレビ番組などで、秘蔵のお宝を持ち寄る人たちが期待しているのは、お金や名誉や博物館への収蔵ではあるかもしれないけれど、すくなくとも「目録」にしてもらうことじゃないんじゃないか。
せっかくすごいものを持ってても、目録をつくっただけで、モノは依然として個人宅に眠ったまま、誰の目にも触れない。それで“博物館はこのものの価値を認めました”なんて言えるのだろうか?
つまるところ、どうしても拍子抜けしてしまうのだ。
「目録」って。
ユカリロ三谷「すみません、目録をつくって、それを博物館に収蔵することって、そのことにはどういう意味があるんですか?」
それに対して、藤先生が返してくださった答えが、抜群に鮮やかだった。
藤先生「まず目録を作るのはね、リスト化して、名称をつけていくということから始めます。茶碗が10個なら10個にナンバーなり、名前なりつけて、それを一個一個捉えていく。リスト化していくというのは、子どもに名前を付けるのと同じで、一つ一つをきちんと認識していくということが大事で、それがないと、存在したことにならないんです」
名前をつけないと、存在していたことにすらならない……。
盤石だと思っていた足元が実はさらさらの砂だった、みたいな心許ない感覚が襲ってきた。「自分がここに存在するという記録がない」ということは、いずれ「自分という存在がなかったことになる」と同義だという事実を、急に突きつけられたような気がしたからだ。「目録」の話からこういう運びになるなんて、少し前の瞬間まで思っていなかった。
藤先生「そのもの自体が博物館に収蔵されなかったとしても、そのものがあったという目録が博物館に残ることで、そこから次世代以降の人たちが、100年後の研究者にとっての価値があるものになるわけです。そのためにはまずリスト化、目録化しないといけないというわけですね」
ここで、ようやく受講生は今回のお題の意味を理解しはじめた。「調査」をしながら、いくらすくいあげようとしてもすくいきれた気がしない、この手ごたえのなさの正体は、いくらすくってもすくってもこぼれ落ちてく人々の暮らしのディテールが、少なくとも今はここにある、ということと、そのなかで私たちが残せるものはほんのわずかだということを調査員だけは知っている、という事実に起因しているということを。
「あと1時間でこのまちがダムの底に沈む」という設定はこれまでこの五城目町で、何人もの人が生まれ、何らかの形でこのまちの生活文化をかたちづくってきたものをすくいとることの難しさを、受講生に実感させるための、浅利さんの直球の問いでもあったわけだ。
すると藤先生が急に、「うちのごみがワイマールの美術館に収蔵されてるの」とにこにこ顔で話しはじめた。
え? ゴミ?
藤先生「僕は1997年から家庭内から出る廃品をずっと集めて、2003年まで99%集めるというのをやりました。そのうち、2001年から2002年の1年間の僕のビニールごみすべてを108分別したものが、ドイツ・ワイマールの美術館に収蔵されています。すごいでしょ。『世界中の変なコレクター』という展覧会だったんだけどね」
そ、それは……変すぎる!
藤先生「僕のコレクションであるゴミもね、108種類に分別されて、名称化されていることで、はじめて『存在する』ことになるわけです。それらをそれぞれがどういうもので、どういう経緯を持っているのかということを調査するのが次の段階。どんな妙なものであったとしても、こうして目録を介して出会う人がいたり、調査に際して新しい専門家とチームを組んだりして、目録をベースにしたプロジェクトと化していくと、目録そのものが新しい時間を作っていくということになるわけ。きっとおもしろいことができますよね。目録はそういう意味で大事なんです」
ここにたしかにそのものがあった、ということを示す。それが目録の大きな、とても大きな意義だったのだ。
「目録」なんてつまらない、と思っていたちょっと前の自分! なんてバカ!