五城目ストリートグラフィティ

~畠山鶴松『村の落書き』をめぐって~


第1回 畠山鶴松の落書き|シンポジウム・フィールドワーク
第2回 なべっこ遠足|フィールドワーク
第3回 ”小さな問題”から捉える朝市|フィールドワーク
第4回 森を学び、木を食べる|フィールドワーク
第5回 五城目町を博物館に見立てるなら|フィールドワーク


第1回「畠山鶴松の落書き」|シンポジウム・フィールドワーク

2017/9/ 30(SAT)

左から服部浩之先生、小松和彦さん、石倉敏明先生
左から服部浩之先生、小松和彦さん、石倉敏明先生

[講師]

小松和彦(小松クラフトスペース代表/郷土史家

服部浩之(キュレーター/秋田公立美術大学准教授)

石倉敏明(人類学者/秋田公立美術大学准教授)

 

 

〜プログラム〜


  9:00 道の駅五城目
  9:30 畠山鶴松翁の仏前に合掌(於 畠山家)
10:00 畠山鶴松の息子さん、お孫さんへの公開インタビュー

    (聞き手:小松和彦さん 於五城目富津内地区公民館)

 

12:00 五城目町内の食堂にて、各自ランチフィールドワーク(昼食)

 

13:30 小松和彦さん、服部先生、石倉先生、による「楽描きトーク」(於ものかたり)
15:00 解散

★持ち物
①フィールドノート(持ち運びやすいクロッキー帳やスケッチブックなど)
②筆記具

 

 


『村の落書き~鶴松翁の絵つづり雑記帳~』の魅力

 

 

秋田県五城目町の明治~昭和後期までを生きた、畠山鶴松という人物がいる。当時の村の生活を歳時記に残した、生まれも育ちも百姓だった人物だ。学童用のスケッチブックや手近なノートに、ボールペンで描かれたスケッチと文章は、のちに郷土史家らの手を経て『村の落書き~鶴松翁の絵つづり雑記帳~』(無明舎、1984)として出版されることになる。

 

AKIBI plus2016から継続して講師を務める小松和彦さんによってスポットライトを当てられたこの人物と残された落書きに、多くの受講生が魅了されてきた。

 

 

 
鶴松が書き残したのは、村の年中行事、子どもたちの遊び、田畑や大工仕事など多岐にわたる。そのなかには現在も食文化として残るきりたんぽや、弁当箱として日本のみならず世界中で人気の曲げわっぱについての記述も残されている。鶴松は、60歳を過ぎてからこの「落書き帳」を書きはじめ、実に30年間にわたって続けたという。

 

小松さんによると、鶴松がこうした身近な生活風俗を書き残したのは、以下のような理由からだった。

 

2016年のAKBI plusで畠山鶴松の紹介をしてくださった小松さん。それが2017年のこの日の企画に結びついた。
2016年のAKBI plusで畠山鶴松の紹介をしてくださった小松さん。それが2017年のこの日の企画に結びついた。

 


小松さん「鶴松翁は、子の代、孫の代までこれを読んで『ああ、昔はこんなふうであったんだな』と笑って和やかに暮らしてほしいという思いがあったと書き残しています」

在りし日の五城目町の暮らしの様子が生き生きと描かれた『村の落書き』が、後世を生きる我々にとって貴重な郷土資料であること以上に、知人から届いた手紙のような親密な空気を纏っている気がするのは、そんなところに理由があるのかもしれない。


この日、我々は鶴松のご子息である畠山耕之助さん(92)のお宅に伺い、さらに直接お話を聞く好機を得た。耕之助さんによると鶴松は習ったわけではなかったものの、絵を描くのが好きで若い頃から嗜んでいたという。現在も鶴松が生涯暮らした富津内下山内組田にある畠山家には、家族が描いた絵がところ狭しと飾られている。

 

 

現存する畠山家への道中。実りの季節だった。
現存する畠山家への道中。実りの季節だった。
畠山家の仏前にて合掌する受講生。
畠山家の仏前にて合掌する受講生。
畠山鶴松のご子息である耕之介さんによる掛け軸。
畠山鶴松のご子息である耕之介さんによる掛け軸。
畠山家には今も畠山鶴松の子孫らが描いた絵が額装されて飾られている。絵を描くことが好きで、身近に絵があった一家のようだ。
畠山家には今も畠山鶴松の子孫らが描いた絵が額装されて飾られている。絵を描くことが好きで、身近に絵があった一家のようだ。

 

息子の耕之助さんも、耕之助さんの実妹も絵がうまい。
「お父さんに習ったのですか?」と尋ねると
「習ったことはねえども、血筋だべな」とポツリといった。

 

 

畠山鶴松のストリート性

 

インタビューで、耕之助さんは以下のように語った。

 

写真右から、畠山鶴松の次男・畠山耕之助さん、孫の安博さん。
写真右から、畠山鶴松の次男・畠山耕之助さん、孫の安博さん。

 

耕之助さん「最初にこの(落書き帳の)書き始めだば、はてな、ここまで生きてきて、農業やるべ百姓やるべと生きてきた(けれ)ども、今どきの機械が入ってきて、おれがしったげ(一生懸命)努力してきたことがただ(無駄に)なったなって、(親父は)こういったもの。楽はなったん(だけれ)ども、難儀したじ(ということが)、だれ(に)もわがらね(え)なと。だんだん自分も歳いってきて野良仕事さね(しな)くても良くなってきたがら、はてな、おれ一人思ってらったってど(こ)さも届くわけねえし、書いて残してみるかと。それで書き始めたども、おいさ(おれに)も言わね。だども20年も30年もやってたものな。」 

百姓として生きてきた鶴松にとって、戦後、農業が機械化されたことで、自分たちが苦労してきたことがなかったことになってしまうという強い思いが、この雑記帳を残す動機になったはずだ、と息子の耕之助さんはいうのだ。

 

 

 

実際、『村の落書き』序文に鶴松はこう書いている。自分の人生は明治、大正、昭和の激動の時代を乗り越えた先に、文明と科学の力で世の中が「開け切って」おり、「それから見た場合、俺などは昔の古物の屑捨て場にすてられた使い道のない、半端の古物で、学者方のように範囲の広い道を書く事は、夢だに思う事なかった。」と。

 ここで、鶴松と、その後のグラフィティ・ライターたちの置かれた状況に、どこか通じるものがあるように感じるのは私だけではなかったようだ。

 

午後のクロストークでは美術家で秋田公立美術大学副学長でもある藤浩志先生が、当時の時代感覚もが伝わってくるエピソードを語ってくださった。
 

 
藤浩志先生「うちの親父が耕之助さんと同い年で、父親とじいさんが価値観や時代背景の違いで対立していたのを、僕は子ども心に悲しい気持ちで見ていたのをよく覚えているんです。じいさんたちの世代、つまり鶴松さんの世代って耕之助さんたちの世代からすごく排除された時代背景を持っていたのね。高度経済成長期の入り口に立っている世代にとって、古い生活って「排除すべきもの」だったんですよ。(鶴松さんは当時)60代を迎えて、自分たちの次の世代にバトンをつなぐ段になって、そういう自分たちの記憶がどんどん壊されていくことを目の当たりにしたことが、それでも自分たちの記憶をポジティブに捉えるエネルギーになったのでは。あれほど詳細な記録を20年も30年も続けていくことには強い意志を感じざるを得ない。あの落書き帳は、そういう戦いの記録でもあったのではないかと思いました。」

 

「あの落書き帳は、自分たちの記憶をポジティブに捉えるためのエネルギーになったのでは」と藤先生。
「あの落書き帳は、自分たちの記憶をポジティブに捉えるためのエネルギーになったのでは」と藤先生。


「伝統的な家庭(ホーム)」から押し出された空間としての「ストリート」にグラフィティがあふれたように、「科学と文明の開け切った世の中」に排除された「昔の古物の屑捨て場にすてられた使い道のない、半端の古物」を自称する鶴松の落書きが、何冊ものノートにあふれたのである。それも「グローバル」な視点からいえば、消滅可能都市として名指しされるある意味究極の「ローカル」である秋田県の五城目町で……。

 

 

 

落書きに五城目のスピリットが宿る

 

こうしてみると、『村の落書き』のからりとした明るさが改めて不思議に思えてくる。世の中に対して独りごちたり、「まったく近頃の若い者は……」などと恨み言めいたことを添えるでもない。「俺はここにいる」と存在証明を声高に叫ぶでもない。ただひたすら自分の生きた時代を写し取ろうとする老翁のボールペン先から生み出される世界は、「大変おいしいものであった」「皆で賑やかに歌ったり踊ったりしたものであった」「重宝したものであった」と、村の暮らしを肯定する言葉で埋めつくされていることに、改めて心打たれる。
 

 

五城目町の名物とされている玉子(だまこ)餅の起源と切タンポについての記述。食べ物と行事の結びつきについての記録は多い。
五城目町の名物とされている玉子(だまこ)餅の起源と切タンポについての記述。食べ物と行事の結びつきについての記録は多い。
「山餅の始、山師から」と書かれた章。餅のごちそう感が伝わってくる。
「山餅の始、山師から」と書かれた章。餅のごちそう感が伝わってくる。

 

ここで、インディペンデント・キュレーターの服部浩之先生から、バンクシーや鈴木ヒラク、yang02といったアーティストが現代の都市にあふれるストリート・グラフィティを取り上げ、生活の中に生きるスピリットや人々の無意識に触れようとするグラフィティ芸術の例が紹介された。これらは一見、鶴松の「落書き」とは無関係のように見えて、実は依頼者や顧客がいないにもかかわらず、人はなぜ描くのか、という根本的な問いにつながっている。

 

 

絵を描き始める動機は、画家になることや展覧会を開くことに必ずしも結びつかない。それは、世界中の子どもたちがまだ言葉を覚える前から、自発的に絵を描こうとすることからもわかる。自分の身の回りにある光景や、肉体に刻み込まれた記憶の光景を描くことは、自分が生まれた世界を見出し、新たな関係を結ぶことなのかもしれない。

 

 

「グラフィティやスケッチのようなものからスタートするアーティストは少なくない」と服部先生。
「グラフィティやスケッチのようなものからスタートするアーティストは少なくない」と服部先生。

 

 石倉敏明先生は赤瀬川原平「老人力」を引きながら、3人の画家の名前を挙げた。すなわち丸木スマ(1875-1956)、アルフレッド・ウォリス(1855-1942)、そしてオーストラリア・アボリジニ(先住民)の画家、エミリー・カーメ・ウングワレー(1910-1996)である。

 

その中でも特に、ウングワレーの作品中もっとも多い画題が、自分の生まれた土地である「アルハルクラ」であったという話は、印象的なエピソードだった。

 

 

エミリー・ウングワレー「無題(アルハルクラ)」 図録『エミリー・ウングワレー展 アボリジニが生んだ天才画家 Emily Kame Kngwarreye』オーストラリア国立博物館=構成、読売新聞社、2008より
エミリー・ウングワレー「無題(アルハルクラ)」 図録『エミリー・ウングワレー展 アボリジニが生んだ天才画家 Emily Kame Kngwarreye』オーストラリア国立博物館=構成、読売新聞社、2008より
エミリー・ウングワレー 「アルハルクラの故郷」1990年
エミリー・ウングワレー 「アルハルクラの故郷」1990年
エミリー・ウングワレー 「アルハルクラ」1992年
エミリー・ウングワレー 「アルハルクラ」1992年
エミリー・ウングワレー「私の故郷」1996年
エミリー・ウングワレー「私の故郷」1996年


石倉先生「それは五城目の人が『五城目』というタイトルの絵を何枚も描くようなものです。自分の生まれた土地が、世界が生まれたときどんなふうであったかを描くことを、アボリジニはドリーミング、夢の時間と呼んでいます。今と昔はドリームタイムでつながっていて、そのときにすでに自分の先祖であるヤムイモのスピリットがあった。それが自分のルーツなんだという意識を持って、このような絵を描いているんです」

 

ウングワレーは78歳の時に初めて絵を描き始め、亡くなるまでの8年の間に3000点以上の作品を手がけたという。毎日、1日も休まず。自分が生まれて死んでいく世界のことを描いた姿は、同じく30年近く「村の落書き」を続けた鶴松と重なる。


小野一二の寄せた解説を読めば、まさにこのことが「体験の肉体化」と表現されていることがわかるはずだ。



記憶は鶴松さん自身の体験によって肉体に刻みこまれ、肉体化されている。

体験は、村の風土とそこに生活する人々によって支えられているといえる。

個人の記録でありながら、それをこえて村の記録にもなっている。

(『村の落書き』によせた小野一二の解説より)


これを読むと、体験を肉体化するということは、風土を肉体化することでもあると感じられる。その意味で鶴松は、五城目町のスピリットを書き続けた人物であるとも言えるのかもしれない。

 

 

鶴松の落書きが海外のアーティストと並べて論じられると、五城目の景色が変わって見える。
鶴松の落書きが海外のアーティストと並べて論じられると、五城目の景色が変わって見える。


石倉先生「老人は体が動かなくなるけど、心はどんどん自由になっていくということを、3人の画家、そして畠山鶴松という人は教えてくれます。筆先で自由に展開できる世界は、人間の可能性を表しているとも言えるのではないでしょうか。美大を卒業してアーティストになれるかどうかなんていう悩みは吹っ飛びますよね。一生かけて世界を見出していくこと。芸術は死ぬまで続くこと。そういうメッセージをこの3人の画家と、畠山鶴松から皆さんが受け取ってくれるとうれしいです」

 

 


第1回 (了)

 

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