1960年鹿児島生まれ。美術家/十和田市現代美術館館長。秋田公立美術大学教授。京都市立芸術大学在学中演劇活動に没頭した後、地域社会を舞台とした表現活動を志向し京都情報社を設立。京都市内中心市街地や鴨川などを使った「アートネットワーク'83」の企画以来全国のアートプロジェクトの現場で「対話と地域実験」を重ねる。同大学院修了後青年海外協力隊員としてパプアニューギニア国立芸術学校勤務。都市計画事務所勤務を経て92年、藤浩志企画制作室を設立。各地で地域資源・適正技術・協力関係を活かしたデモンストレーションを実践。著書に『藤浩志のかえるワークショップ』、『域を変えるソフトパワー』など。福岡県糸島市在住。NPO法人プラスアーツ副理事長。 http://geco.jp
藤 土屋さんの過激な挑発を受けて、どう反応しようかと思っています。
僕ももともと、虫もいないような鹿児島市内のど真ん中で育ったので、
都会っ子ではないけれど、虫がダメでね(笑)。
僕はどちらかというと「辺境好き」です。
辺境好きというか、基本的に「端っこ好き」です。
端っこの心地いいところを見つけていくということかな。
僕の場合は青年海外協力隊でパプアニューギニアに行って、ずいぶん変わりました。
マラリアを媒介するハマダラカという蚊に刺されまくり、
おかげでマラリアにも2回かかり、アメーバ赤痢にかかり、
サバイバルしながら生き延びる術を身につけていった感じです。
辺境で暮らす人々は、生き延びる術をよく知っています。
山に入って、人に言えないキノコの場所を知っている。
密かに受け継いでいる山菜の場所がある。
海があり、山があり、それぞれの保存の技術があり、人とのつながりがあります。
自然や周辺の人とちゃんとした関係ができていたら暮らしていけるということを、
理解してきた気がします。
藤 東京で暮らしていた当時思っていたことは、
「東京では金がないと暮らせない」ということでした。
東京では何をするにもお金がかかる。時間イコールお金。
だから作品を作っていても、すぐ時給換算する癖がついてしまった。
自分のために制作している時間にしても、
普通に仕事していると時給幾らかのお金が入りますから、
自分の時間を使っているということは、
逆に時給幾らかのお金を使っている感覚になってしまいます。
さらに一枚の絵にしても、一冊の本にしても、それが集まると一部屋埋まりますから、
厳密に考えると制作物や持ち物は家賃を使って置いていることになります。
つまり物が増えると家賃が増える。
そのような強迫観念から逃れることが難しくなってしまったんです。
その後、鹿児島に戻って暮らし、
今は福岡の糸島というところでもう20年近く暮らしています。
そういう「辺境」でつくづく感じていることは
「食べる」「生活する」「稼ぐ」「活動をつくる」という4つは、
それぞれ別のレイヤーなんだということです。
1993年に鹿児島に移住したとき、お金は全然なくなったわけですが、自由だなと思いました。
それは家賃がほとんどタダのところを渡りながら暮らすようになったせいもあるんですが、
はじめて制作する時間とお金との関係から解放された感覚がありました。
山菜をとり、農業をし、海では魚をもらい、山では猟師さんから肉を分けてもらう。
こういう生活は辺境でしかできない。
まちなかでそういう生活はあり得ないわけです。
藤 僕は早い時期に東京を離れ、鹿児島という地方で活動することを選びました。
その頃から意図的に「地方」ではなく、「地域」という言い方をしてきた。
例えば、秋葉原という地域、渋谷という東京の中のある特化したひとつの地域と、
南九州、あるいは北東北という大きなエリアの地域と
バリューとしては近いかなということに気づきました。
その重さのようなもの、質量みたいなものが釣り合うとすればそれぐらいかな……と。
その後、インターネットがつながり、飛行機が安くなって、
交通の便が格段に良くなりました。
福岡では地理的な条件も手伝ってアジアの作家とのつながりができたり。
僕もそうですが、実際、アーティストたちは年に何度も国内外を問わず行き来し、
さまざまなつながりの中で活動を展開するようになりました。
さっきの土屋さんへの反論みたいになっちゃうんだけど、
僕は東京にいたときは、周辺のギャラリーとか美術館しか見にいかなかったのが、
鹿児島や福岡に拠点を移して以降、
アジアの地域や日本国内のありとあらゆるところを移動しながら
俯瞰的な視点を持てるようになったのかなと思うんです。