その6

沖縄在住のシティ派美術批評家

~モダニストとしての提言~

土屋誠一先生の話(前編)

©Atsumi Kosaka
©Atsumi Kosaka

土屋 誠一(つちや せいいち)

1975年神奈川県生まれ。美術批評家/沖縄県立芸術大学准教授。2001年第4回[武蔵野美術]評論賞受賞。2003年第12回芸術評論募集佳作受賞。以後、『美術手帖』、『10+1』、『photographers' gallery press』等で評論活動を展開。2005年「disPLACEment-「場所」の置換 下薗城二・宮内理司 展」、2007年「disPLACEment-「場所」の置換 vol.2 倉重光則展」

(photographers' gallery + IKAZUCHI)で企画・展示構成。2009年に「美術犬(I.N.U.)」を創設し、メンバーとして参加。2014年にはtwitter上で参加者を募ったアンデパンダン形式の展覧会『反戦 来るべき戦争に抗うために』を実施(SNOW Contemporary)。共著に『実験場 1950s』、『現代アートの巨匠』、『ラッセンとは何だったのか?』、『現代アートの本当の見方』、『現代アートの本当の学び方』など。


アートツーリズムは

誰にでもアクセス可能か?

土屋  地方にいると、文化的なものへのアクセスポイントが少ないという問題があります。

    同様に、アートツーリズムというのはオープンなのか、ということは

    問わなければならない問題です。 

 

    大学では美術史を教えることがあるんですが、東京にいれば

    「国立西洋美術館に行きなさい」「東京国立博物館に行きなさい」ということが可能ですが、

    沖縄の学生に同じことはなかなか言えません。

    それはアートツーリズムの問題ともつながってくるんですが、

    地方では都市部に比べても「アートツーリズム」を享受できる層が限られている

    というのが私の率直な実感です。

 

    さらに沖縄に住んでいる私に言わせれば、

    アートツーリズムはアクセスするのにお金がかかります。

    地方で行われているアートツーリズムに参加するには、

    飛行機に乗り、レンタカーを借りて、一泊して、ということになります。

    つまり、資本(お金)が必要だということになるわけですよ。

    その資本は誰に対しても果たして開かれているのか。

    アベノミクスなんていいますが、やはり景気がいいとは言えず、

    所得の格差が広がっているという現実は、

    文化的・知的な格差も同時に広がっているということを表していると思います。

 

    フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(注2)が言ったように、

    文化資本が低ければ当然のことながら文化を享受するチャンスも減るわけです。

 


(注2)ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu、1930-2002

フランスの社会学者。文化財や社会制度だけでなく、服装や食事の趣向といった身体的な知識として継承される「文化資本」について鋭い分析をおこなった。たとえばある人が「クラシック音楽」を好むか「大衆音楽」を好むか、といった芸術的趣向の選択は、ブルデューによればある集団への帰属意識や他者と自分を区別する「卓越化(ディスタンクシオン)」の効果として現れるという。



土屋  地方に芸術を、といったときに、地方のコンテクストを利用して

    そのリソースを何かしらにつなげよう、と言うのはかんたんなんですけれども、

    受け手は誰なのかというのがもっとも大きな問題です。

    都市部の人なのか、地域に住む住民なのか、

    または他の地域に住んでいるアートに関心のある人なのか。

    一体、誰なんでしょうか。

 

アートツーリズムの代表例として、岡山県の直島が挙げられる。過疎化しつつある周辺の島も含め、いくつもの美術館とホテルをつくり、今や年間35万人が訪れる島となっている。
アートツーリズムの代表例として、岡山県の直島が挙げられる。過疎化しつつある周辺の島も含め、いくつもの美術館とホテルをつくり、今や年間35万人が訪れる島となっている。

SNSは人を自由にするか?

~細切れにされた「ローカル」の中で~

土屋  先ほど武雄市の文化水準の話をしましたが、

    我々はあまりに反教養主義を掲げてしまったがために、

    教養そのものをなくしてしまったのではないか、ということです。

    昔は西洋のことはよく知っているけれども、

    日本のことは知らないという学生が多かった時代がありましたが、

    今の学生の教養はもう、そのレベルではない。



    さらに、ここ(AKIBI PLUSのフライヤーを見ながら)に

    「プロジェクト1 地域課題とウェブメディア」とあるように、

    現在はそれぞれがローカルコンテンツに在住していながら、

    ウェブメディア(SNS)を活用しながら情報収集をしています。

    そこで我々は自由に情報収集できているかというと、まったくそうではありませんね。

    SNSが加速したのは何かというと、

    人々の文化的あるいはローカルコンテンツによるクラスタリングを

    むしろ強化したことだ、ということです。



郷土史家のおじいちゃん不在の

地方の教養問題


土屋  ここは大学という場所ですから、

    あえてモダニストとしてふるまわせていただきたいと思うんですけれども、

    基本的な教養はやはり重要だな、ということです。


    昔は郷土史家のおじいちゃんなどが近所にいて、

    そういういわば知的エリートたちの知恵や知識のシンクタンクのようになっていわけですが、

    共同体の解体とともに地方の教養もどんどん解体しています。

    さらに公共の知的施設である図書館がいわゆるTSUTAYA化している現状があるわけです。

    それは一見豊かなように見えるけれど、実は我々が共通に話をできるような

    基礎的な基盤をどんどん失っていることを意味します。

    こうして我々が対話する共通の基盤がなくなった現在、

    対話自体が不可能になっている。

    対話が不可能ということは、地方における所得及び知的文化的格差が拡大すればするほど、

    その状況というのは悪化していくだろうというのは容易に想像できます。

    私はその点においてはかなり懸念を抱いています。


    啓蒙とか教養ということを我々は批判するがゆえに、失ってきてしまったこと。

    それらが今、地方における問題を引き起こしているのではないかと思うのです。

    そういうことを踏まえた上でないと、地方という問題は語ることができない、

    というのが私からの提言です。


    じゃあ、やっぱり都会に行かなきゃだめなの? そんなことはないはずなんですよ。

    今のところポジティブな提言ができませんでしたが、

    この後のクロストークでポジティブ路線に行きたいと思いますので、

    また後ほど、どうぞよろしくお願いいたします。

    ご静聴ありがとうございます


 

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