シンポジウム 辺境と芸術

クロストーク③

アートって、なんだろう?

~「作品」と「ツール」~

 

 

土屋  私は「地域の特性を活かす方法」って、地域、地域の特殊解しかないと思うんですね。

    現代では特にアート・プロジェクトやソーシャリー・エンゲージド・アート(注4)

    といわれるようなアートのフォームがある、とされています。

    その前提となっている話とは、少なくとも言語体系が同じであれば、

    知識を共有していなくても、あるゲームのルールのなかで同じように振る舞うことができる、

    それをアートと呼びましょう、ということです。

    ある作品をアートとして認定するときに、アートヒストリーなるものを背景にして、

    そこからの連鎖や進歩の仕方、距離の取り方、それに対する批判、

    それらさまざまなコンテクストというものを複合的に解析して、こういうふうな価値があって、

    こういうふうに意味があるんだ、というふうに言えるわけです。

    つまり、アート作品は作品としてみるためのフレームを要請されるわけですよ。


    しかし、そこには別の問題もあります。

    今まではそのフレームは「ものとして残る」ということだったわけだけれども、

    では、アート・プロジェクトって何が残るんですか、という点で常に疑問に思っているんです。

    ドキュメントは残るが、ドキュメントは果たしてアートなのか。


    また、美術的な行為をおこなったときに、将来に対するリソースとして

    どうやって投げかけていくのかということもアートの役割ではないかと思います。

    つまり、過去のリソースを使って、将来に対して何を投げかけるのかということを

    常に考えないといけないと思うんですよ。

    そのあたりの伝え方というのは今のアートフォームというのはすごく難しくなっています。

    ある意味アートは自由になったと言えるかもしれないけれども、

    自ら首を絞めているといえなくもないというふうに思うんですけれども、

    アートプロジェクトの専門家としてはどうでしょうか。

 


 

 

藤   おもしろい投げかけだと思いますし、その点については考えることはありますね。
    「作品」とは何かというテーマは、最近僕のなかでとても大きくなっていて、

    アートピースとかアートワークなど、いろんな言い方がありますけれども、

    確かにプロジェクトってアートワークには落とし込みにくいところがあって、

    僕もドキュメントは作品じゃないと思います。

    ただ、僕が可能性を感じているのは、お祭りの仮面とか、

    祭事のときの道具のような文化的資産が「ツール」として使われているところなんです。

    アートワークというのは本来、そのようにして使われるべきものなんじゃないかな、

    ということなんですね。


    つまり、アートワークというものを美術のシステムのなかの「作品」と捉えるんじゃなくて、

    地域のなかで「ツール」として使われていくことに可能性があるのではないか。


    プロジェクトのなかから出てきたペインティングもある種「ツール」になりえるし、

    いろんな人々の活動を誘発する「ツール」になりえる。

    彫刻も、道角に置かれている地蔵さんとか石像もそうだったかもしれないし、

    宗教や祭事・儀礼とつながるものと同じように、音のツール、リズム、

    ありとあらゆるものが人々の次の生活を作っていくなんらかのツールとしての

    「アートピース」という捉え方は一つあるんじゃないかと僕は思っていて。

    どうでしょう。

 

土屋  ああ、「ピース」か。なるほどね。確かにそれはそうかもしれませんね。


    ただ、一方ではアートを過疎の問題や地方活性化のプロジェクトに結びつけて

    充足しようとする政治や税金の流れもある。

    僕は今の日本のこの状況にすごく怒っているんです。

    経済、文化、政治システムに対してです。

    それで一体どういうことが我々に可能なのか、というと、

    都市はだめだ、地方からこの国を再構築しないとということです。

    たとえば、日本の近代初期にも同じような構図があった。

    柳田國男は『遠野物語』の序文に

    「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と書いたわけです。

    つまり、「近代化された都会人よ、お前らこれを読んでビビれ」と脅しをかけた。

    もちろん大塚英志さんがよくいうように、『遠野物語』は偽史である、ということもあって、

    それ自体が一つの物語性を持った作品でもある。

    そんなふうに、あるピースを着地点にしてもいいんだけれども、

    そこから新たに物語が発生していくようなものが必要なのかな、と思っています。

    それはなぜなら近代美術は物語をすべて排除してきたからですよね。


    物語を嫌悪してきたのが近代美術なんですよ。

    我々は地方にいて、都会にはないような物語的なリソースというものを持っていて、

    それから何ができるのか、ということを問われるならば、美術をしなくてもいいけれども、

    何かをクリエーションする、あるいは物語をクリエーションする

    ということなのではないのかな、と。

    それがこの国の形を変えるんじゃないの、と。


    地方にいて、あーだこーだ言っていてもだめで、

    そういう実践をやっていかなきゃいけないのかなと。

    だからこれは世直しというか、革命までいかないけれど、そういう感じを持っています。

 

 

 

 

石倉  いいですね、熱くて。

    柳田國男もそうだけど、同時代に日本の地方を歩いた民俗学者、南方熊楠や

    折口信夫といった人たちはみんな怒っています。

    土屋さんの怒りは私憤ではなくて、折口信夫はそういうものを「公腹(おおやけばら)」

    と言いましたね。

 

 


(注4)ソーシャリー・エンゲージド・アート
「1990年代以降、芸術界の枠を離れて社会との実質的な関わりを求め、人びとと協働形式で社会
的課題に取り組もうとする芸術表現が増加している。2000年に入ってから世界各国において、こ
の様な伝統的な美術の枠を越えた表現活動の数が急増してきた。その活動特色は、作品がアー
ティスト個人の手でつくられるのではなく、参加、対話、行為を通して、共同で制作されること
である。地域コミュニティ、都市デザイン、福祉、環境まで実に幅広い範囲を活動対象とし、多
様な表現メディアを使用している。作品よりもそのプロセスに重きを置き、現代社会が抱える多
様な問題に対して、参加者との対話や関係性を構築しつつアプローチしていく。」
工藤安代「ソーシャリーエンゲージドアートの現在」(2015年、実践女子大学美學美術史學)序文より

 

 

                                        →クロストーク④へ続く