まだ森に入る手前なのに、三浦さんはまた立ち止まる。裸の木の幹の前だ。
三浦さん「これはアカメガシワですね。今は黄葉(こうよう/黄も紅もどちらも“こうよう”と読む)してもう葉が落ちていますが、この葉っぱがそうですね。」
といって下に落ちている葉っぱを拾った三浦さんは、手に持った葉っぱをぴらぴらと翻しながら、続ける。
三浦さん「アカメガシワの座右の銘は『早く大きくなりたい』。ということは、できるだけ光合成をいっぱいしたい。そのために葉っぱについている棒、葉柄(ようへい)を長くして、葉っぱを揺れやすくし、自分で風を起こして、いっぱい二酸化炭素を取り込めるようにしているわけです。
さて、このアカメガシワは『移動する木』とも言われています。浅い根っこでつながっていて、これ全体でひとつの個体なんです。日当たりのいい部分はどんどんと成長していきます。すると日陰の部分はもれなく枯れていきます。」
受講生「そ、それは自ら枯れさせるということなんですか?」
三浦さん「そうです。一つの個体なので、一部分が枯れてもOKなんです。木によって生き残りの方法はいろいろです。」
「木が移動する?! 信じられない……」
呆然としている一行を尻目に、三浦さんはいよいよ雑木林のなかに足を踏み入れた。
「ああ、いいですねぇ」
と三浦さんはすぐに立ち止まった。くねくねとした道の曲がり角の少し日陰になった場所に、紫色の木の実が見える。
三浦さん「ムラサキシキブです。日本古来のとてもいい木ですね。森のなかには紫色の実をつけているやつはほとんどいないんです。あまり高くならない木で紅葉もきれい、紫の実がチャームポイントになったので、庭木として大変重宝されました。そこに江戸時代の植木屋さんが目をつけて、「ムラサキシキブ」と命名し、大ブレイクしました」
三浦さん「ムラサキシキブは北海道から九州まで、幅広くいます。こいつみたいに北海道から九州までいるやつは、さりげなくどこにでもいますね。合コンで目立たないタイプ、地味やけどいつもいるというやつ。僕みたいですね。地味やけど、栄えているんです。渋い。ふふふ。」
三浦さん、一人で笑ってる……。この人の森に対する「偏愛」ぶりは、やはり我々が想像した以上だった。
足元に積もった落ち葉を指しながら、三浦さんはいった。
三浦さん「木がたくさん生えているところに、落ち葉がこれだけたまります。すると土ができ、肥沃になっていきます。そうすると、ここに松がいますが、どうですか? 明らかに押されてますよね。葉っぱも少ししか付いていない。残念ながら、この松はゆくゆく枯れます。
昔の人はコナラの木を薪として切って、落ち葉も集めていたので、この松も元気でした。現代はコナラも切らないし、落ち葉も掃かない。そうすると森が肥沃になり、松は枯れていくんです。」
皆一斉に見上げると、マツの葉っぱの先が赤茶けている。
三浦さん「ああ、でもこのマツの感動的なのはね、ほら見てください。葉っぱは少しなのに、先っぽのほうにマツボックリをたくさんつけていますでしょう?」
目をこらすと、たしかにツブツブと黒いものが他のマツよりも多くついている。もうすぐ枯れそうなマツなのに、こんなにたくさん実をつける元気があるの?
三浦さん「こいつは自分がもうあまり長くないことを悟って、少しでも多く子孫を残そうというマツの考えです。とくに幹の先端部分の枝を見てもらうと、明らかに葉っぱとマツボックリの数のバランスが取れていないですよね。対して、幹の下の部分の葉っぱは、ほとんど茶色く枯らせています。これはですね、厳密にいえば、幹の下の部分の枝葉は枯れているのではない。松が自分の意思で枯らせているんです。」
「枯れる」じゃなくて「枯らせる」!!
三浦さん「森が肥沃になり、他の木々が枝葉を伸ばしてくると、直射日光でないと光合成ができない松にとっては、暗くなった枝に葉っぱを茂らせていてもエネルギーの無駄なんです。そう判断した松は、とくに日当たりが悪い枝の付け根でシャッターを閉じているんです。そんな枝々に養分が行かないようにして、先っぽのマツボックリに養分を集中させて、最後の力を振り絞って自分の子供たちを残そうとしているんですね。」
そうか、最期だからこそ子孫を残すために、このマツは最期の大博打を打っているということなのだ。
三浦さん「木は『茂らせる』ということも積極的にやりますが、「枯らせる」ということもすごく積極的です。なぜなら彼らはここで芽吹いてここで死ぬわけですから。だから木の場所の感受性というのは人間よりも桁が2つぐらい違うと思いますね。じゃないと適応できないんです。」
置かれた場所で芽吹いて、置かれた場所で咲き、置かれた場所で死ぬ。自分とマツを重ねると、「動けない」ことへの恐怖も感じる。でも同時に、動けないからこその知恵をも、この枯れつつあるマツから感じるのである。「移動」が今ほど簡便になった時代はないし、「移動」で解決できることも少なくないけど、「どこに行ったって根っこは結局一緒」と言われているような気もして、なんだか身につまされるのであった。