午前中のフィールドワークを経て、受講生は再びものかたりに集合。
後半は秋田大学で日本語学を教えてきた佐藤稔名誉教授をお招きしての成果発表となった。ちなみにこの佐藤先生、ユカリロが創刊号でも取り上げた『秋田のことば』(無明舎出版、2000年)のほとんどの解説を書いた先生である。
さて、受講生は一体どんな問題を集めてきたのだろう。それぞれが集めてきた「小さな問題」を付箋に書き出し、窓にペタペタ貼っていく。それを眺めながらの講評である。
北原さん「これわかるわ~。これ誰ですか?」
ユカリロ三谷「私です。これは荒要商店さんの前に置いてあった看板ですが、秋田に来てから選挙看板のフリガナがおかしいの、けっこうあるんです。『荒川しげる』さんの看板なのに、フリガナは『アラヨ』。この『ヨ』は一体どこから来たのか……」
会場が口々に独自の意見を言い合ったり、笑い声をあげるなか、佐藤先生が静かに、しかしはっきりと言った。
佐藤先生「屋号です」
屋号とは、江戸以前の武士以外が苗字を名乗ることが認められていなかった時代に家々を呼び分けるためにつけられたものである。今でも秋田では地域によっては同じ苗字が多い地区や、古くから続く家どうしなどは屋号で呼び合うことも少なくない。
ユカリロ三谷「屋号だったんですか! じゃあ投票のときに『アラヨ』と書いても有効票に入るんですか?」
佐藤先生「入るんでしょう」
ユカリロ三谷「そうなんだ!」
納得し、のちはっとする。北原さんは「小さな問題は解決しない」って言ってたのに、佐藤先生、解決しちゃった……。
気を取り直して次!
佐藤先生「ニシンのことをカドっていうんです。それがなまってカズの子になって、縁起担ぎで“数”の子に」
一同「おお~! また解決しちゃった」
北原さん「じゃあ佐藤先生にこれ聞きたい! 」
これを書いたのは藤井さん。
藤井さん「最“高”と最“低”とあって、最“中”ってなに?って」
佐藤先生の「源順(みなもとのしたごう)という人の歌の中に……」という解説を聞き終わらないうちに会場内からどよめきが起こる。
「これもわかっちゃうんだ……」
「googleいらないかも……」
佐藤先生「まんまるい月を『秋の最中(もなか)』って読んだ歌があって、ど真ん中、という意味で最中なんです。最中というお菓子は丸いでしょ? だからなんです」
一同「おお~~丸い丸い」
藤井さん「“最高の中身”の略かと思ってた」
佐藤先生はシナリオなし、カンペなしの完全ライブのなか、バッタバッタと「小さな問題」を斬っていく。このままでは「教えて!佐藤先生!」というコーナーになってしまいそう。
北原さん「じゃあ次! 佐藤先生が解決できなさそうなのを……」
北原さん「これは誰?」
「はい! 私です」
と手を挙げたのは、なべっこの回で名シェフとして名を馳せた、ミヤタさんである。
ミヤタさん「私は子どもに使うんです。例えば、さんまのはらわたを『苦いよ』というのではなく、『これは大人の味だからね。大人になったらおいしいんだけどね。みんなはまだ子どもだから食べられないかもね』っていって、食べさせる」
山本先生「ああ、なるほど。
北原さん「さざえの先っぽの方とか」
一同「あるある」
北原さん「その逆もある?」
山本先生「ポテトチップスとか、スナック菓子」
北原さん「いや、スナック菓子はまだ食いますけど『ねるねるね~るね』は食えんかった」
一同「ああ、ムリ~~」
柳澤さん「おれウィンナーが苦手になりました。脂が……」
山本先生「じゃあ子どもも自慢してもいいのかも。『大人にはわかんないでしょ、これ、子どもの味なんだから!』って」
北原さん「ほんまや、それ逆の権利も与えるべきや」
ミヤタさん「じゃあ、『子どもの味あります』って売り出したら、朝市でけっこう売れるんじゃない?」
柳澤さん「たしかに!」
すると会場から、
「大人の方便、という考えもありますよね」
という声も上がった。
北原さん「それあるわ。寿司屋でウニとか、高いもの頼ませないように」
ヤスヒロさん「さざえの先っぽも大人が食いたいから、子どもに暗に『ダメよ』っていう」
ミヤタさん「だめって言われたら食べたくなるから……」
北原さん「そうそう、それであとでパパが食べるとかね。子どもが本当に食べられないものじゃなくて、大人が子どもに食べさせたくないもののことを、大人の味、というのでは」
北原さん「その行為も含めて、大人の味やね」
柳澤さん「あ! それ、大いにありますね! 行為のほうが大きい気がする。今日の経験は、“大人の味”だったね、とか。要するに切ない失恋したときに飲んでいたお茶の味が、“大人の味”とか」
山本先生「うわ、いい話出てきた! じゃあ、次! これは?」
ミヤハラさん「フィールドワークをしていたら、五城目にはお菓子屋が多いなと思って、なぜ?需要があるの?と五城目出身のモモさんに聞いて。モモさんは高校生なんだけど、友達の家に行くときは必ず手土産を持っていくんですって」
一同「えっ! 高校生なのに?!」
モモさん「え? 普通じゃないんですか? 小さい頃は駄菓子とかだったですけど、今はお菓子屋さんで買ったものを持たされます」
山本先生「ゲームしに行くだけとかでも?」
モモさん「持っていきます」
佐藤先生「昔はねぇ、人のうちに行くときはお土産を持っていくのは普通だったんですよ。五城目独特の風習だったのは、牛肉を持っていくというものです。今は廃れちゃいましたけど、牛肉を手土産にするというのが、一時期のマナーでした。初めて伺うときなど、菓子折りじゃなくてですね、生の牛肉を持っていくんです。30年ぐらい前まではそれが常識でした。私は秋田市からきたので、それにびっくりしたんですが、周囲に倣ってやってみました。そしたら普通に受け取ってもらったから、『ああこれでいいのか』って」
ここまでくると佐藤先生も「解決しないモード」でのんびりと、だがこれまた斬新なエピソードを繰り出す。
ユカリロ高橋「そ、それは何グラムぐらい……?」
佐藤先生「300グラムぐらいでしょうかね。経木に包んで」
ユカリロ高橋「300グラム! けっこう、いいお値段」
北原さん「でも、ちょっとゲームしたいだけやのに、そんな牛肉300グラムて……」
ユウスケさん「子どもの遊びでも、おやつだけはちゃんと持っていくものでしたよ。親に持たせられました」
柳澤さん「やべ、おれ町の人の家に遊びに行くときいつも手ぶらですよ」
と元地域おこし協力隊の柳澤さん。秋田に来て4年目の秋、初めて知る事実に苦い顔をしている。
佐藤先生「手ぶらが普通になれば、もっといいんだって」
柳澤さん「これ、“小さな問題”じゃなくて大きな問題ですね、僕にとっては。反省しよう」
誰一人問題を解決しないと、ディスカッションがこうも「井戸端会議」的になるものか……。おばさんとしての普段の我が身を振り返って反省しつつ、頭の片隅で「解決しない」ことの効用を思う。なにしろ、初対面のメンバーもいるというのに、話がまったく途切れないのである。
こうして答えの出ない「小さな問い」について、もともとは見ず知らずだった20人ほどが語り合う。その時間には無駄も多いが、そのなかでふと、きらりと光るアイデアや、思いもかけない話が出てくることもあるのだった。「“子ども味”を朝市で売り出す」「五城目の人には手土産を持っていくべき」など……。
山本先生「今日は佐藤先生がいらっしゃるおかげで、わりと解決しちゃいましたね! 北原さんはこれまでも何度か“小さな問題”探しをいろんなところでやってこられたそうですが、今回五城目でやってみてどうでした?」
北原さん「あんまりよそと変わらなかったです。でもそれがいいなぁって。」
山本先生「小さな問題にすると、世代を超えたり、場所を超越したりするんですかね。」
北原さん「こういうことを議論する場って本当になくて。ここにいる人たちは美術大学の人たちや、アートに関心のある人たちだからできるけど、ぼくの地元でこんな話は誰にも通じないですよ。アートやデザインの仕事をしてるやつの気持ちなんてマジでわからへんというようなところですから」
山本先生「それって要するに、斜めから物事を見る機会がないということですよね。“小さな問題”に気づくっていうのは真正面から物事を見ていると大きすぎてわからないじゃないですか。」
北原さん「それを掘り下げようとすると面倒くさがられるのが“小さな問題”ですよね。なんの意味があるの?って」
山本先生「今日の話も“なんの意味があるの?”っていう問題、たくさんありましたもんね」
北原さん「それはね、意味なんかない、でいいんですよ。意味はなくても広がりはいっぱいあるし、今まで僕たちが見てきた多くのすばらしいもののいちばん最初の原点ってこういう小さいことからでかいことにつながっていたはずだから」
山本先生「最初に地域アートの話をしましたね。このプログラム“小さな問題を見つける”をやってきましたけど、結果、あまり地域差はなかったと。でも、僕たちは五城目町の朝市に行かなかったらこれだけ問題を見つけてくることはできなかったわけですよね。入り口はローカルから。でもテーマが“小さな問題”だったために、どこででも起こりうる問題に最終的につながるということに意味があるのかなと思いました。地域プロジェクトをやると、どうしてもその地域のことだけの話に陥りがちですし、その地域のことをやるのは必要ですが、本当にその土地だけで完結するようなガラパゴス的な内容だったとしたら、広がりがなくなってしまうんですよね。ローカルなことはとても大切でそれはやっていかないといけないけれど、それが閉じられているか開かれているかっていうのは地域プロジェクトですごく大きな問題で、今日の取り組みでは、そこがちょっと見えてきたんじゃないかと思います」
ゴジラ級の問題は等身大に「小さく」することで、地域は開かれる。そうすることで、初めて内の人と外の人が向き合える。向き合ったところで導きだされるのが「正解」でなくてもかまわない。大切なのはそこでどんな対話が生まれるかだ。アーティストとしての山本先生、外部の人としての北原さんから、受講生と五城目町に投げられたボールにはそんなメッセージが込められていたような気がした。
ちなみに、他に出された「小さな問題」は以下のとおり。
「秋田弁は『さすすせそ』って聞こえる」
「ダメージジーンズはいつからおしゃれに?」
「なぜあそこの店だけ大根が売れる? 136本」
「キウイたわわに実ってるんだけどだれも売ろうとしない」
「ハロウィンでモテようとする奴」
「ハロウィンはなぜ紫とオレンジ?」
「“セルフサービス”ってサービスじゃない」
「“思春期の終わり”っていつ?」
「五城目にはヤンキーがいない?」
「ヤンキーってなんですか?」
「“懐かしい”はいつから?」
ユカリロとして特に検証したい、というか意味もなく語り合いたいのは
「五城目にはヤンキーがいない?」
あたりだが、読者のみなさんはどうだろうか。
第3回(了)